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鬼と鬼殺隊は煩悩と悟り!? そう読み解いたワケを僧侶が語る(第2回)

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2020/12/12 18:00

稲田ズイキ

稲田ズイキ

これは、僧侶が『鬼滅の刃』を読み解く連載の第2回目である。(以下、ネタバレ注意してください)

初めて『鬼滅の刃』を読んだとき、涙が止まらなかった。

それは、鬼滅が、仏教が2500年前から説いてきた「永遠と不滅」の物語を描いてるように感じ、現代的なタッチでそれを表現する吾峠呼世晴先生はもはや悟りの境地にいるんじゃないか、とすら思えたからだ。

つまるところ、めちゃくちゃ感動した。もうこんな物語があれば、僧侶である自分なんていらないんじゃないかと思えるくらいに。同時に、自分が僧侶として大切にしてきた想いを、「それでいいんだ」と真正面から肯定してくれた気がした。

なので、この連載では、そんな鬼滅に感謝の気持ちを込めて、一人の僧侶として『鬼滅の刃』をどのように読み、何が心を動かしたのか、できる限り一つ一つを言語化し、さらなる鬼滅の魅力を見つけてみたいと思う。

鬼と鬼殺隊の対比①「不死VS無常」

ひとえに言って、『鬼滅の刃』は鬼と鬼殺隊の物語である。では、その「鬼」という存在、つまり無惨様やその他の鬼は、何を象徴していると考えられるだろうか。

全部で3つのポイントから、鬼と鬼殺隊の対比を読み解いていこうと思う。

まず一つ目として、鬼は「不死」を象徴していると思う。これは劇中でも何度も強調されてきた人間と鬼の対比ポイント。鬼は何度斬られても肉体を再生できるが、鬼殺隊は負った傷を抱えながら生きている。

鬼の特徴は一部の弱点を除き、不老不死であること
人は「元に戻らない」ことが強調される

鬼のボスである無惨様はわかりやすく「私が嫌いなものは変化だ」と語り、永遠を求め続けていた。

劇場版にもなった無限列車編でも、この「永遠VS無常」の対比は、猗窩座と煉獄さんの戦いで描かれていた。鬼になれと何度もプレゼンする猗窩座に「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」と無常の尊さを説く煉獄さん。あのセリフに胸を熱くしない僧侶はおそらくいないだろう。

ちなみに、僕が鬼滅を初めて読んだとき「これはすごい表現だ」と唸ったのは、炭治郎の手のひらがずっと傷だらけでボロボロのまま描かれ続けていたところだ。

炭治郎の手はずっとボロボロのままだった

漫画ではキャラクターはあくまで記号にすぎないとされることが多い。どれだけ傷ついても、戦闘が一件落着すれば傷も癒えるし、元通りのキャラクターの造形に戻るのが定石だろう。

しかし、炭治郎の手のひらは傷ついたまま元に戻らない。そのボロボロの手からは、彼がどれだけの苦労を背負ってきたか、さらには人間であるがゆえ失ったものは戻らない悲しみが伝わってくる。

炭治郎は目の前で生きているように感じられる不思議な魅力がある。それは、こうした身体に過ぎ行く時間の感覚が刻まれた稀有なキャラだからなのではないだろうか。

さて、実は「不死VS無常」の構造、仏教的に見るとこれは「煩悩VS悟り」という仏教が持つ大きな構造とよく似ている。

仏教にはベスト4に入るくらい大事な言葉として「諸行無常」がある。つまり、あらゆる存在は必ず変化し、不変は存在しないという絶対的な真理だ。

でも、仏教では人間は底なしに欲を持ってしまう生き物として語られる。生・老・病・死(四苦)という、決して逃れられない苦しみがあるにも関わらず、永遠の命や老いない体を求めてしまう(執着)存在として説かれるのだ。

それは奇しくも、鬼と鬼殺隊の対比で描かれているものとそっくりなのだ。僕の目からは、不死を象徴する鬼と無常を象徴する鬼殺隊は、仏教でいう欲望(執着)と悟り(諸行無常)として見えてしまうのだ。

鬼と鬼殺隊の対比②「利己VS利他」

2つ目のポイントとして、鬼は欲望を象徴していると思しき点が挙げられる。それは、無惨様の度重なるパワハラ発言を見れば明らかだ。

「そんなに怒らなくてもいいのに」と心配してしまうくらい……

無惨様は自分の思い通りにいかないことに対して常に腹を立てている。鬼を増やす理由も、自分が太陽を克服して不死の体を得るためであった。つまり、すべて自分の欲望のためである。

言葉を選ばずに言うならば、小物だ。ラスボスにしては珍しく大義もなく、自己中で始まり自己中で終わる。欲望の権化のような存在。

また、無惨の血が分け与えられた他の鬼も、それぞれ欲望を象徴したキャラクターの造形になっているように思えた。

響凱は承認に飢え、累は家族を欲していた。

上弦の壱ですら欲望が根源にある

妓夫太郎は他人を羨み、黒死牟も何者かになりたいという欲求を持ち続けている。鬼は欲望、つまり利己の象徴なのである。

だからこそ、読者は鬼に共感できるのかもしれない。そして、その欲望まみれの鬼が死に際の走馬灯を経て成仏していく姿に、汚れ切っていなかった自分の真心のようなものをサルベージして、僕らは涙するのだろう。

一方で、鬼殺隊の人間はどのように描かれているか。鬼に対する怒りを元に鬼殺隊は戦うが、その存在のあり方というのは、一人の人間でありながら、時として「自我」を越えているように思える瞬間が多く描かれる。

炭治郎は自他の境界線をほとんど越えている

一番初めに「アオイさんはもう俺の一部だから」のセリフを見たとき、震えてしまった。炭治郎は個としての自分を拡張しているような境地に入っているのではないだろうか。

炭治郎にとって自分とは、もはや自分だけではないのだ。また、「人のためにすることは結局巡り巡って自分のためにもなっているもの」とも語る炭治郎は、いわば自我を超越している。

ちなみに、無限列車編で描かれていた、炭治郎の無意識領域にいた「光る小人」は、なぜ炭治郎はこんなに他者とわかりあえるのか、という問いに対し、一種の種明かしをしていたように僕は感じた。

煉獄さんは、もはや個と個の戦いとして見ていない

鬼殺隊は、煉獄さんもすごい。このセリフには、もはや個として鬼と戦っておらず、誰かを守るため、鬼殺隊という一つの集団として鬼と戦っている精神性が垣間見える。

鬼滅では、そうした自我を超越した境地の者として、鬼殺隊の人間が描かれていることが多く、自己中心的な鬼と対比されているように思える。

さて、この「利己VS利他」の対比も、実に仏教的に見える。仏教には「自利利他」という言葉があり、つまりは「他人の幸せは自分の幸せであり、自分の幸せは他人の幸せ」この二つを同時に満たし続ける状態が、理想的な状態だと説かれる。

とはいえ、人間には自分を優先してしまう感情がつきものだ。その自己中心的な心の働き(代表例:貪り・怒り・無知)を煩悩と呼ぶのである。

このように、利己の鬼、利他の鬼殺隊の対比は、これまた仏教でいう欲望(煩悩)と悟り(自利利他)であるように、僕の目からは見えたのだ。

鬼と鬼殺隊の対比③「個 VS 繋がり」

さてさて、鬼が象徴としているものの3つ目、それは支配的な構造ではないだろうか。無惨様がつくる鬼の集団は、無惨を中心において力をすべて集中させた「中央集権」の構造となっている。

無惨さまはとことん支配しようとする

それゆえに、無惨様が消えたら、鬼もすべて滅ぶことがお館様から指摘されていた。また、無惨の部下である累も、恐怖で家族という繋がりを強要しようとしていたり、鬼は強者が弱者に対し、主従関係を強いる生き物として描かれているように見える。

一種の怖さも感じさせるくらいの「個」

このときの無惨さまの言葉に一種の怖さすら感じた人もいるかもしれない。これはまさに「個」の極地でないと見えない景色のセリフだ。

お館様はトップにいるが、もし消えても組織は成立する

それに対して、鬼殺隊は中央にお館様というトップは置きつつも、その存在には依存していない組織の構造になっているように思える。

実際に、お館様は無惨を倒すため、あえて自死を選び、鬼殺隊の士気をあげる戦略をとった。自分の肉体の存続ではなく、想いが継承されていくことを優先しているように思えるのだ。

鬼殺隊が象徴としているのは、集団でありながら支配構造がなく、中央が空洞である「中空構造」だ。お館様の言葉を借りるなら、人の想いで全員が繋がっている。

鬼殺隊のなかでも、炭治郎は繋がりを感じる力が人一倍優れていたと言えるだろう。家族を含め、亡くなった隊員の想いを誰よりも感じ、自らを鼓舞して鬼と戦っていた。

炭治郎は目には見えない繋がりを感じ取ることができる

その力は、自分が経験していない記憶までも思い出せるまでに。もはや炭治郎は自我を越えて、他者との繋がりのなかに自分の輪郭を置いているような存在だといっても過言ではない。

見えないものを信じ、自我を手放して戦う鬼殺隊の姿は、目に見える血で繋がった支配で成り立っている鬼とは対照的に描かれているように思える。鬼が最後に走馬灯で過去の記憶を見て成仏するのは、いわば人間の象徴である「繋がり」を思い出しているからだとも言えるだろうか。

さて、仏教タイム。この「個 VS 繋がり」の対比もまた仏教なのだ。仏教では、悟りの境地として「無我」が説かれる。つまり、自分とはただ独立して存在しているのではなく、誰かがいて自分がいるという他者と同期した存在(縁起)として説明されるのだ。

それに対して、人間はどうしても自分があると思い込んでしまう。それは仏教では「我執」として苦しみの根源として説明される。

このように、個を象徴とする鬼、繋がりを象徴とする鬼殺隊の対比は、仏教でいう欲望(我執)と悟り(無我)の構造と、またしても似てしまっているのである。

さて、以上3つのポイントは僕が言うまでもなく、誰もがその物語に触れれば、感じ取ることができる特徴なのではないだろうか。

吾峠先生は明らかに概念と概念を対比させて、鬼と人間を描き分けていることが分かる。少なくとも鬼殺隊が鬼を倒すこの物語では、永遠よりも無常が、利己よりも利他が、個よりも繋がりが、尊ばれるべきだという作品のメッセージを浮かび上がらせていると、言えるのではないだろうか。

鬼と鬼殺隊、実は相反しながら繋がっている?

このように、『鬼滅の刃』という作品のテーマ自体は、比較的読み取りやすいのではないかと思う。しかし、ここから先に「鬼滅がすごい!」と言わしめるポイントがある。

先ほどから述べているように、この構造は、仏教にある煩悩と悟りの対比とぴったり当てはまってしまうのだ。

とはいえ、別に仏教だからすごいじゃん、と言いたいわけではない。この構造に当てはまるがゆえに見えてくる『鬼滅の刃』のさらなるメッセージが本題だ。

一旦、仏教の話をしよう。初期の仏教では、煩悩と悟りというように、大きく概念を二つに分けて、煩悩をなくすことで悟りに近づいていく構造だったわけなのだが、実は後期になってくると、その二つの捉え方が変わってくるのだ。

すなわち、煩悩と悟りは分けようとしても分けられない、コインでいう表と裏の関係として捉えられる。煩悩があるからこそ苦しみを実感し、その苦しみから脱したいと思えるから悟りを求められるのだと説かれる。それを「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という。

この構造を見て、僕は鬼と鬼殺隊も、この「煩悩即菩提」の関係性になっているのではないか思ったのだ。

すなわち、鬼と鬼殺隊は明らかに相反する存在として描き分けられているように見えるが、実は鬼と人間は一つの直線上に繋がっているのではないか、という考察である。

つまり、『鬼滅の刃』とは、鬼と人間の二項対立の物語のように見せて、実は鬼と人間は一つに繋がっていて、そんな鬼と人との境界線すらも中和して、すべての繋がりを解放する物語なのではないかと僕は考えているのだ。

ちなみに仏教では、煩悩と悟りすら区別せず(「無分別」)、すべての境界線を取っ払って世界をフラットに見つめられる存在を、悟った者(ブッダ)と呼ぶ。

鬼のなかに人間がいて、人間のなかにも鬼がいる。もし『鬼滅の刃』が、そんな鬼と人間のシームレスな関係性を描いていたら、それはもう吾峠呼世晴先生は、完全に仏に近い領域にいると言っても過言ではない。

僕が『鬼滅の刃』を見て、大感動した理由もまさにここの分析にこそある。

続きは、また来週に記載します。お楽しみに〜。

鬼滅の刃
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