この連載では、『鬼滅の刃』に感動した一人の僧侶が、鬼滅をどのように読んだのか、できる限り一つ一つを言語化し、さらなる鬼滅の魅力を見つけていく。
第1回、第2回が気になる方はこちらから。
なぜ鬼「殺」の刃ではなく、鬼「滅」の刃なのか?
前回までの考察では、
第1回:鬼滅には仏教を彷彿とさせるモチーフがたくさん登場するということ
第2回:鬼と鬼殺隊はそれぞれ「永遠と無常」「利己と利他」「個と繋がり」という対比で描き分けられており、それは仏教が持つ「煩悩と悟り」の関係と似ていること
をそれぞれ説明してきた。
長い道のりだった。やっと、次の考察に入ることができる。今回語りたいのは、なぜこの物語のタイトルが「鬼殺の刃ではなく、鬼滅の刃なのか?」という大きな大きな問いだ。
疑問に思った人もいるかもしれない。なぜなら、これは鬼殺隊が鬼と戦う物語。だとしたら、なぜ「鬼殺の刃」でないのか。もしくは、なぜ「鬼滅隊」ではないのか。
この漫画は、明確に「殺」と「滅」を使い分けているように思える。
この「滅」は、炭治郎の手に伝わった刀が作られたとき、たった一つの目的を込めて刻まれた一文字でもある。
これらの表現の使い分けは、炭治郎だけが別の目的を持っていることを表しているのではないか、と僕は考えた。
僧侶である僕からすると、「滅」という言葉は仏教語として目に映る。仏教では、「滅」とは、「無くす」という日本語的な意味ではなく、「コントロールする」という意味を指す(滅の原語 nirodha)。
つまり、「煩悩を滅する」とよく仏教では説明されるが、煩悩は消すのではなく、コントロールして上手く付き合っていくものなのだ。鬼は個の欲望をむき出しにした生物であり、煩悩の象徴として描かれていることの考察は、前回に説明した通り。
以上のことから、僕が提唱したいのは、炭治郎は鬼と上手く付き合おうとしているのではないかということだ。
すなわち、鬼殺隊は文字通り鬼を打ち倒そうとしているが、炭治郎は鬼と人間の対立を越えて、鬼すらも愛そうとしているという仮説である。
タイトルで「滅」と「殺」を使い分けているのは、鬼と人間の二項対立を超えていくという炭治郎の意思を、この物語を通して表現したかったのではないだろうか。
つまり、『鬼滅の刃』は鬼と人間を対立関係に描きながら、鬼殺隊が鬼を退治する話のように見せかけて、実はその鬼と共生していくことを隠れたメッセージとして表現しているように思えるのだ。
炭治郎だけが鬼と人間の二項対立を越えている
ところで、『鬼滅の刃』では「繋がりを感じる」ことが物語の主題であるように思える。
作中には様々な形で「繋がり」が登場する。
物語の前半に炭治郎がよく言っていた「隙の糸」の糸というモチーフも、まさにこの繋がりを象徴するもののように思える。
繋がり、つまり仏教でいう「縁起」をどれだけ感じることができるか、それが鬼滅の重要なファクターなのだと考えられるが、作中で唯一、この繋がりを「人間と鬼の関係性」のなかで感じられる存在がいる。
それが主人公、竈門炭治郎だ。
このように、鬼を退治していく鬼殺隊の世界で、炭治郎だけが鬼のなかに人間を、自分のなかに鬼を見ていたのだと思う。それは他の隊士たちがただ鬼を倒そうとしていることとは対照的である。
『鬼滅の刃』の世界では、あたかも鬼という生物が別個のものとして存在するように語られる。しかし、よく作品をよく見てみると、禰豆子は鬼と人間の中間をさまよい、玄弥は鬼を食べて鬼の力を得るという特殊能力を持っていた。
つまり、鬼というのは確固たる生物がいるように見えて、実はそれぞれがグラデーションとして存在しているのではないだろうか。それは僕らでいうと、男女という一応の区分があるものの、誰もが両方の性質を持っていて、そのグラデーションのなかで生きていることとよく似ている。
僕が思うに、この鬼滅の世界には「鬼の因子」のようなものがあり、誰もがその因子を持っていて、その因子の濃度の配分によって鬼と人間という体裁上の区分が与えられているだけのように思うのだ。
もちろん、作中では、「鬼」とは無惨様から血を与えられた者を示していた。彼らは高い身体能力とともに、血鬼術を持ち、何度斬られても再生可能な肉体を持つ存在だ。文頭の説明でいうならば、「永遠」の存在に近く、それは鬼の因子が限りなく高い状態といえるだろうか。
しかし、誰もがその鬼の因子を持っているのではないか、と僕は考えている。すなわち、どんな人間も小さな鬼を持っている。というのも、そのように考えると説明できる現象が複数存在するからだ。
例えば、この鬼滅の世界では、炭治郎の鼻や善逸の耳のように、説明されることのない天性の能力が存在する。人間であるのに、なぜか人間離れともいえる特殊能力を持っている人間がいるのだ。玄弥もまさにそう。これは、小さなレベルで開花した血鬼術の一種なのではないか、と考えると説明がつくのではないか。
さらに、人間が鬼と戦うために編み出した「全集中の呼吸」という技術も、人間が鬼に近づくことで強くなっているのではないかと考えられる。
前回の考察の通り、鬼というのは不死の象徴だ。それはつまり「死を恐れない」という精神の在り方を意味するのではないだろうか。考えてみれば現実世界でも、呼吸は生死に直結し、自分の命をコントロールする働きであり、作中の全集中の呼吸とは一歩間違えば、限りなく死に近づいてしまう行為だ。
このときの炭治郎は怒りの感情と、全集中の呼吸の酷使によって、限りなく鬼に近づいていたシーンのように思える。この後「たとえ鬼に堕ちても」と語る炭治郎は、もしかしたら自分のなかに存在する鬼の因子に気づいた瞬間に見えなくもない。
つまり、物語の上では、どの鬼殺隊のメンバーも鬼を憎み、鬼を倒すために戦っているが、実は鬼というのは鬼舞辻無惨とその配下だけではなく、あらゆる人間に点在する現象のようなものとして描かれているのではないかと思えるのだ。そして、その真理に炭治郎だけが感じていたと僕が解釈する。
仏教では、人は無意識のうちにすべてを「分別」してしまうものとして説かれる。鬼と人間、男と女、自分と他人、賛成派と反対派、煩悩と悟りのように。しかし、本当の悟りの境地というのは、そうしたあらゆる区分をもつけない境地だと説かれるのだ。それを「無分別」といって、あらゆる二項対立を超越した存在として説かれる。
炭治郎は作中において、この「無分別」の悟りの境地にある唯一の存在なのだと思う。だからこそ、炭治郎は鬼を倒すとき、ただ「殺」すのではなく、その鬼を「滅」するのだ。
こうした無分別の在り方が、タイトルに込められているというのが、僕の考察だ。
鬼「殺」の刃ではなく、あえて鬼「滅」の刃にした理由とは、「滅」に込められた仏教語「消すのではなく上手く付き合っていく」という想いである。
つまり、『鬼滅の刃』は人と人、自分と他人、前世と後世など、あらゆる繋がりを感じることの大切さを説き、その極値として鬼と人間という関係性のなかにも繋がりを感じる在り方、すなわち、この世のあらゆる区分をも超越していこうとする姿勢を、構造の裏側で伝えようとしているのではないだろうか。
その姿は僧侶の目からすると、悟りを目指し修行していく仏道にほかならないのだ。
次回は、最終話を中心に「本当に鬼はいなくなったのか?」という点について考察していく。
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次回は、12月26日(土)18時に更新予定!
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