実家のお寺はというと、いま繁忙期を迎えている。そう、お坊さんの繁忙期は世間の逆。お盆と年末年始がアレコレとせわしないのだ。
実家で過ごしていてびっくりしたのは、還暦近い母親が、
「最近、鬼滅の刃を読んでるねん」
と言ってきたことだった。
僕が子どもの頃から「おもろいからこの漫画は読んだ方がいい!」とどれだけ勧めても、母親は「読まへん」と頑なに断ってきた。
そんな漫画を読まない人生を歩んできた人間が、今漫画を読んでいるのだ。この母親の態度の変化には、我が子の成長を見守る母親のように感動した。ややこしいけど。
還暦の漫画嫌いをも読ませてしまう鬼滅のすごさ。これが国民的コンテンツというものなのだろうか。
さらに話をきくと、母親は、近所に住んでいる中学生の女の子に5巻ずつ借りて読んでいるらしいのだ。なんだ、その青春(アオハル)みたいな漫画の読み方。
こんな地方の片田舎の小さな町で、性別も、年齢も、好き嫌いも、ご近所付き合いも、『鬼滅の刃』はすべてを繋いでいく。
第三回の考察では、『鬼滅の刃』が「繋がり」をテーマにしていることを分析してきた。
まさに、作品に込められたテーマが祈りになり、この現実世界で発露しているのだ。この分断された世界をつなぐのは、そうした祈りが込められたコンテンツなのか。作品は世界を変えるのか。
せわしなく鐘をつきながら、そんな小難しいことを考えていた年末年始であった。
ただ、未だに供養できずにモヤモヤしていることもある。先日、母親に言われた言葉が原因だ。
母は言った。
「私、インターネットのこと全然わからんけど、聞いたで。あんた、インターネットで『サイン・コサイン・炭治郎』って言ってるらしいやん」
身に覚えがなさすぎた。母の言うインターネットは僕の知っているインターネットとは別ものなのだろうか。
年明け早々、迷宮が目の前に広がっている。一富士二鷹三茄子四ラビリンス。
次の考察の更新は、来週1月17日の18時です。
コメントはまだありません。