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鬼滅の最終回考察「悪鬼は本当にいなくなったのか?」 (第4回)

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2021/01/16 20:27

稲田ズイキ

稲田ズイキ

これは、僧侶が『鬼滅の刃』を読み解く連載の第4回目である。

この連載では、『鬼滅の刃』に感動した一人の僧侶が、鬼滅をどのように読み、解釈したのか、できる限りその一つ一つを言語化し、さらなる鬼滅の魅力を見つけていく。

※以下、最終巻までのネタバレに注意してください
※最終巻をまだ読んでいない方は、お読みになってから是非またお越しください
※最終回について独自視点の考察をしているので、そういう考察が苦手な方は、読むことをおすすめしません!



よ、よろしいでしょうか?

というわけで、今回は満を持して、「最終回第205話には何が描かれていたのか?」ということを考察してみたい。

いや、マジでこの最終回はすごい。テーマの回収など、すべてをまるっと包み込んだ華麗なる大団円だった。そのうえで、この連載では「悪鬼って本当にいなくなったの?」ということについて考察してみたいと思う。

もし、第1回、第2回、第3回が気になる方はこちらからどうぞ。

まず、前回までの考察を振り返ってみようと思う。

第1回:鬼滅には仏教を彷彿とさせるモチーフがたくさん登場するということの考察

第2回:鬼と鬼殺隊はそれぞれ対照的に描き分けられており、それは仏教が持つ「煩悩と悟り」の関係と似ていることの考察

詳しくは第2回を読んでください

第3回:鬼滅では鬼と人間を対立関係に描きながら、実はその鬼と共生していくことを表現しているのではないかということ、そしてその鍵となるのが以下の2つであることの考察

・「殺」ではなく「滅」に込められた意図(仏教的な意味では「消す」のではなく上手く付き合っていくという意味がある)
・作中における「鬼」とは鬼舞辻󠄀無惨とその配下に限られず、すべての人間に「鬼の因子のようなもの」として点在していると言え、炭治郎だけがそのことに気づいていたのではないかということ

以上、それぞれ順を追って言語化してきた。

別に読まなくても今回の考察はわかると思うが、もし興味があれば読んでくれたらうれしい。

鬼は本当にいなくなったのか?

『鬼滅の刃』の最終回である205話「幾星霜を煌めく命」を読んで、心のなかに浮かんだ疑問だ。この世界から「鬼」は本当にいなくなったのだろうか。

鬼舞辻󠄀無惨を倒したことで、事実上この世からは人喰い鬼はいなくなった。お館様の「君(無惨)が死 ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」の言葉通りにいくと、たしかにそうなのだろう。204話のタイトルもその名の通り「鬼のいない世界」だ。

でも、自分はどうしても引っかかる部分がある。無惨様の最期だ。

無惨様の最期の言葉がこれである
この必死さには胸を打つものがある

精神世界で炭治郎が無惨様を置いて現実に戻ってゆくシーンは、何と言ったらいいのだろう。救いがないというか、どうしようもないというか、原稿締め切り当日の僕のような丸裸の切迫感があった。

言葉を選ばず言うなら、あまりにもみっともない。そして、なによりも見落とせないのが、こうした丸裸で乞い願っている無惨様に対して、炭治郎は始終無視をきめている点だ。彼は一切の気遣いをせず、精神世界から抜け出していく。

そう、僕がどうしても気になったのは、この点。無惨様が炭治郎に優しくしてもらえていないところだった。

前回の考察にも書いたが、作中で唯一の鬼にも優しい鬼殺隊士が炭治郎だ(物語開始時点で故人のカナエさんは除くが)。

倒した鬼に対して「君の血鬼術は凄かった!!」と褒め称え、目の前の鬼を憎みながらも「もし俺が鬼に堕ちたとしても」と省みる姿は、鬼と人間の境界線がほとんどないと言っても過言ではないくらいだろう。

つまり、炭治郎だけが鬼のなかに人間を、人間のなかに鬼を感じていたのだ。

そんな炭治郎の優しさに誘われるように、多くの鬼たちは炭治郎に敗北した瞬間、人間だった頃の記憶を思い出し、浄化されるように去っていく。

あの猗窩座をも感謝させた炭治郎
初めて倒した鬼にかけた言葉は「成仏してください」だった

炭治郎がよく「成仏」と言うのは、倒した先にあるこうした救済を願っているのだと僕は思っている。

しかし、そんな炭治郎の優しさが無惨様には向けられていないのだ。物語の初めから炭治郎は無惨を憎んでいた。その憎しみの初動をそのままに、なんの優しさも向けられないまま無惨はこの世から消えていったように見えた。

いや、炭治郎のこの「目」

たしかにこの戦いのすべての元凶なので、さすがの炭治郎も優しさを振りまく余裕もないくらい憎んでいたのも分かる。魘夢や半天狗といった悪性の高い鬼たちにも優しさを向けていなかったこともあった。

それでも、だって、ラスボスなのだ。あの優しい炭治郎ならば「お前も大変だったんだな」とか、せめて「安らかに眠れ」程度の言葉は投げかけられたんじゃないだろうかと思ってしまう。あまりものほっとかれぶりに、「え?無惨様、大丈夫?」と心配してしまうレベルなのだ。

走馬灯を体験した鬼たちは心穏やかに成仏していったのに対し、無惨様はこの世に執着を残して去っていったように見えなくもない。

第二回でも書いたが、鬼というのは仏教でいう「煩悩」のメタファーだと僕は考察している。煩悩、つまりは、自己中心的な欲望だ。

それでいうと、無惨様は「私を置いて行くなァァァァ!!」と煩悩をそのままにこの世から消えてしまった。多くの鬼たちが走馬灯を通して、他者との繋がりを思い出し、自己中心的な感情を浄化していったのとは対照的だ。たしかに無惨様は消滅したっぽいが、はたして成仏できたのだろうか?

そんなことを考えていると、一つの疑問が浮かんでくるのだ。

「本当に悪鬼っていなくなったのだろうか?」

第204話の「鬼のいない世界」というタイトルも、「あえて言っているんじゃないの?」と思えてしまえる。

最終回で謎に思える描写

考えすぎかもしれないが、そんな疑いの眼差しで、いざ最終回を見てみると、その景色が違って見えた。僕がどうしても気になったポイントは二つ。

一つは、炭治郎の子孫である炭彦の身体能力が異常に高いことだ。

アクロバティックな登校をする炭彦
身体能力の高さが繰り返される

一見すると、別に「炭治郎たちの子孫なんだし、身体能力高いのは当たり前か」くらいで済むかもしれない。でも、最終話の限られたコマのなかで、これでもかってくらいその描写が繰り返されているのは、少し気になってしまう。

何度も描かれるこの「身体能力が高い」って特性。僕がイメージを重ねてしまうのは、鬼の特性だ。

序盤に明かされている鬼の特性

続いて気になったのは、炭彦の「寝るのが好き」という表現だ。

最終話は炭彦の「寝るのが好き」から始まる

これで思い出したのは、鬼になった当初の禰󠄀豆子のことである。鬼となった禰󠄀豆子の特徴は眠ることで体力を回復することだった。このシンクロは偶然だろうか。

少ない材料であることは否めないが、この2つのシーンから炭彦のなかに鬼が残っている可能性があるというのが、僕の思っていることである。

成仏しきっていなかった無惨様が炭治郎のなかにしぶとく生きていて、記憶の遺伝さながらに子孫、そのまた子孫へと引き継がれ、少しだけ現実世界に顕現しているのではないか。個人的にはその可能性はありそうだなと思う。

というのも、どうしてもあの無惨様の死に際が、今までの鬼の死に際の法則から、あまりに逸脱しているように見えたからだ。何度もいうが、無惨様には救いがなさすぎる。

また、鬼が煩悩のメタファーであるという前提に立つならば、仏教的に言っても煩悩は無限。お館様の言う「永遠というのは人の想い」であれば、無惨様の言う「私の想いもまた不滅なのだ」もまさにその通りなのだ。煩悩は尽きることなく、悟りへと転じることしか道はない。

つまり、現在進行性で鬼(無惨様)は残っているのではないだろうか。そんな希望を込めて、僕はこの最終話を読んだ。

また、これはさらなる希望になってしまうのだけど、この現代を舞台にして、続編があったらなあと願ったりもする。

もしもそうなったとしたら、炭彦のなかに無惨様が生きてきて、自分のなかに住む鬼とどのように付き合っていくのか、そういう人間と鬼の共生をテーマにした物語になったらなあ、と僧侶視点で思ったりもするのだ。一人の人間のなかで揺れる煩悩と悟りの物語。まぁ、全部妄想ですけど。

さて、僕がこの最終回に感動したのは、ほのぼのとした日常を描きながらも、こうした可能性を感じたこと。そして、もしそうであったとしたら、僕が考察してきた「『鬼滅の刃』は鬼と人間の二項対立のように見せかけて、実はその二項対立を超越しようとする物語」という、テーマが浮き彫りになるように思うからである。

すなわち、『鬼滅の刃』には表と裏、2つの大きなテーマが実は存在しているのではないか、と勝手ながら僕は考察している。

表の物語は、「無惨を倒したらすべての鬼が消える」という目的のもと、無事に無惨を倒し、悪鬼がいない世界を実現したというストーリー。

裏の物語は、炭治郎が薄々気づいていたであろう、「この世界には鬼の因子のようなものがあり、鬼とは固有の存在ではなく、誰もが鬼と人間のグラデーションのなかで生きていて、誰もが大なり小なり"鬼"を持っている」という前提のもと、その煩悩という名の鬼を成仏させていくストーリーだ。

※人間のなかに存在する鬼の因子の考察の例(詳しくは第3回を参照)

  • 炭治郎の鼻や善逸の耳、玄弥の鬼を食う能力など、人でありながら超人的な能力が存在すること
  • 全集中の呼吸も鬼に一時的に近づく技術と見れなくもないこと

「なぜ鬼「殺」の刃ではなく、鬼「滅」の刃なのか?」という第3回の考察でも書いたが、炭治郎は「殺」ではなく「滅」、つまり仏教でいう「上手く付き合っていく」という目的を鬼に対して作中で遂行しようとしている人物だった。

つまり、炭治郎はこれまで鬼に対して「滅」で接しようとしていたのに対し、ラストでは無惨様に対して「殺」をしてしまったと、言い換えることもできるのではないだろうか。

これまでに鬼は煩悩のメタファーなのだろうとも述べていた。人が煩悩と上手く付き合っていくことと同様に、鬼とも関係性を築かないことには、鬼が完全にこの世から消えることはないと、僕は解釈している。

さらに、鬼が残っているという勝手な仮定のうえでの夢想だが、あの炭治郎でも成し遂げられなかった鬼の成仏はきっと、将来的に炭彦が成し遂げてくれるのではないかとも僕は考えている。

手鬼に祈りを捧げる炭治郎
話でしか聞いたことのない鬼に祈りを捧げる炭彦

なぜならば、彼もまた、鬼に優しい人間であるはずだからである。


来週の更新は1/23(土)の18時です!

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鬼滅の刃
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