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善逸はなぜ眠りながら戦うのか?(第5回)

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2021/01/23 18:00

稲田ズイキ

稲田ズイキ

これは、僧侶が『鬼滅の刃』を読み解く連載の第5回目である。

この連載では、『鬼滅の刃』に感動した一人の僧侶が、鬼滅をどのように読み、解釈したのか、できる限りその一つ一つを言語化し、さらなる鬼滅の魅力を見つけていく。

※以下、最終巻までのネタバレに注意してください

前回までは全体のストーリーを追いかけ、『鬼滅の刃』は一体何を表現しようとしているのかを僧侶視点で考察してきた。

連載を始める前は「こんな考察を世に出して大丈夫なんだろうか」とビクビクしていたのだけど、記事を出す度に沢山の肯定的なコメントをいただいていて、救われた気持ちになっている。

今ならば「小生の…血鬼術は………凄いか………」と語る響凱の気持ちがもっとわかる。

拙僧の…考察は………凄いか………

もし、第1回、第2回、第3回、第4回が気になる方はこちらからどうぞ。

さて、全体について語っていった前回までとは趣きを変えて、今回からはもう少し細部を見ていきたい。

語りたいのは、「善逸はなぜ眠るのか?」という話だ。寝ると強くなる、そんな酔拳(睡剣?)のような技の使い手である彼だが、物語のなかで善逸という人間がどのような意味を持っているのかを考えてみたいと思う。

鬼滅における「眠る」ということ

僕は、そもそも『鬼滅の刃』では「眠る」という行為が象徴的に描かれていると思っている。

例えば、鬼になった禰󠄀豆子は眠ることで体力を回復している。さらに、最終話でも炭彦は「寝るのが好き」と言って、おばあちゃんの夢を見ていた。さらに、特筆すべきは劇場版で敵として立ちはだかった魘夢である。彼の血鬼術は敵を強制的に眠らせ、任意の夢を見させる技であった。

このように『鬼滅の刃』では、「眠る」ということ、そして「夢」が幾度も描かれているのだ。

ここで、一歩引いてメタ的に『鬼滅の刃』という作品を見てみると、鬼滅における「敵」は主人公側が持っている思いを象徴するかのように描かれることが多い。例を挙げれば、累は家族愛を象徴し、堕姫と妓夫太郎は兄弟愛を象徴した鬼のように映る。これらは言うまでもなく、炭治郎にとって大切なものであり、『鬼滅の刃』の物語においても尊ばれてきた概念であるのは明白だ。

だとすると、やや逆説的ではあるが、無限列車編の敵である魘夢が象徴とする「眠り」と「夢」は、『鬼滅の刃』という物語において、また、主人公側においても重要な概念として描かれている可能性は高いのではないだろうか。

ここからは僕の推測であるが、この世界における「夢」は鬼が倒された瞬間に駆け巡る「走馬灯」と同じような働きをしているのではないだろうか。

悪鬼も走馬灯を見る

鬼が見る走馬灯では決まって、人間だった頃の過去の記憶が映し出される。そんな走馬灯を見て、鬼たちはただ消えるのではなく、なにか満たされたような雰囲気で成仏していく。

これまでの考察のなかで僕は、鬼とは仏教でいう煩悩のメタファーなのではないかと説明してきた。煩悩、すなわち自己中心的な欲望である。

つまり、走馬灯を経た鬼の成仏という現象は、自己中心的な欲望を持った鬼(人間)が過去の記憶を思い出すなかで、他者との繋がりを思い出し、そうした利己的な感情を解きほぐした瞬間に起きるものなのではないだろうか。

仏教的に言えば、縁起(繋がり)を知ることで、煩悩と上手く付き合っていく関係性を見つけ、無我に至ると説明できるだろう。

そして、「夢」というものも、この走馬灯と同じように、見た者に過去の記憶を思い出させてくれる装置として機能しているのではないか、というのが僕の推論である。

このことから、禰󠄀豆子は眠ることによって、過去の記憶を思い出して自分の中にいる鬼を抑え込もうとしていると見ることもできる。また、前回の記事で書いた「炭彦のなかに無惨様が眠っている」という説の説明付けにもなるだろう。

すなわち、炭彦も自身のなかに眠る無惨様の力を過去の記憶で中和しようとしているという見方も出来るのではないだろうか(炭彦のなかに無惨様が眠っている説は第4回の考察を参照してください)。

このような一連の考察を積み上げていけば、善逸の「眠る」という現象も、物語的に必然だったと説明することができると僕は考えた。

善逸の「眠る」は何を表現しているのか

では、善逸の「眠る」現象について、考察していこうと思う。

無限列車編で描かれた、真っ暗闇の善逸の無意識領域

まずは、善逸に対する作中表現で個人的にゾクッときたのは、無意識領域が真っ暗だというところだ。ここではさらに、無意識領域にはいないはずの善逸自身が存在しているとも表現されている。これは何を表しているのだろうか。

過去の描写を振り返ってみると、善逸はとことん欲望にまみれた少年であると分かる。

思い込み(煩悩でいう「痴」)が激しい
人のせいにする癖(煩悩でいう「瞋」)も激しい

その原因として考えられるのは、善逸の生い立ちではなかろうか。作中で善逸は「本当に捨て子ならおくるみに名前も書かねえよ 俺みたいにな」とこぼしていて、自分が親にとって「捨て子=要らない人間」だったのだという自己認識が善逸の心を深く蝕んでいることが分かる。

こうした人間の歪みのようなものを見ると、どうしても僕は鬼に重ねてしまう。以前からこの連載で説明しているように、鬼は自己中心的な欲望、つまり煩悩のメタファーとして描かれているとのではないかと考察しているからだ。

さらに、鬼というのは決して無惨様によって血が分け与えられた存在だけを指して言うのではなく、あらゆる人間のなかに現れる現象のようなものなのではないかと推測してきてもいる。(詳しくは第3回)

すなわち、僕が言いたいのは、善逸もまた心のなかに小さな「鬼」を持つ人間として描かれているのではないか、ということだ。真っ暗な無意識領域は、鬼が好んでいる夜の闇を表現していると見ることもできるだろう。そこに自分が存在しているのは、強すぎる自我、つまり鬼のメタファーである煩悩そのものだとも考えられる。

善逸は心にそうした小さな鬼を抱えながら戦い、そして眠る。「眠る」という行為が、鬼という煩悩を中和していく機能として描かれているという前提のもと、この現象を語るならば、善逸は鬼と人間で揺れながら戦っているのだと説明することができるだろう。

描かれはしていないが、彼は眠りのなかで、夢を通して自身の過去の記憶から他者と繋がり、自意識という煩悩を解き放っているのではないか。このように僕は推測している。

つまり、この作品において善逸という人間も、鬼と人間の中間の存在として描かれているように思えるのだ。

「も」と言ったのは、これまでの過去の考察で、不死川玄弥や珠世様、愈󠄀史郎、そして主人公の炭治郎までもが、鬼と人間の間で揺れている存在だと説明したからである。

この連載では何度も言っているが、僕は『鬼滅の刃』のテーマは、「鬼と人間の二項対立のように見せかけて、実はその二項対立を超越しようとする物語」なのではないかと思っている。

善逸もまた、そうした構造を一人の人間の中に落とし込んだキャラクターなのではないだろうか。僧侶視点でいうと、彼の眠りは、自我をリセットさせる行為、すなわち瞑想や坐禅に近いのだ。

ちなみに、眠りをスイッチにして鬼と人の間で揺れる、そんな特徴をわかりやすく持っているキャラクターは、他でもない禰󠄀豆子である。

善逸と禰󠄀豆子、この二人の未来は最終話で描かれているので、もはや言わずもがなだが、この考察を前提とすれば同じように自分のなかの鬼と向き合った人間たちとして、あの結末は必然だったのかもしれないと思う。

鬼が煩悩であるとするならば、鬼とは心の弱さだ。そんな自分の心の弱さを見つめ続け、自分と戦い続けた二人だからこそ、お互いを見つめ合う目も深くなり、ああいう未来が待っていたのではないだろうか。

……この考察はいつにもなくロマンチックがすぎるので、このへんでやめさせてもらいます。来週の更新は1/30(土)の18時です!

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