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謎の存在"光る小人"について僧侶が考えてみた(第6回)

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2021/02/06 18:00

稲田ズイキ

稲田ズイキ

これは、僧侶が『鬼滅の刃』を読み解く連載の第6回目である。

この連載では、『鬼滅の刃』に感動した一人の僧侶が、鬼滅をどのように読み、解釈したのか、できる限りその一つ一つを言語化し、さらなる鬼滅の魅力を見つけていく。

※以下、ネタバレに注意してください

もし、第1回〜第5回が気になる方はこちらからどうぞ。

今回は大ヒット記録を現在進行形で更新し続けている、劇場版「鬼滅の刃」無限列車編について。劇場版の何が最高だったのか、僧侶視点で語ることにする。

まず、僧侶的に最高だったところを、ドドドと語るならば、

僕の目からは、禅僧に見えた

一口ずつ「うまい!うまい!」と言う煉獄さんには、一瞬ごとに一つの感覚を文字通り"噛みしめる"姿勢、すなわち”今”だけに集中するような「悟りの境地」を感じたし、

夢と現実の間を錯綜する炭治郎

夢と現実が交錯して、現実で自分の頸を斬ろうとする炭治郎の、現実が一つの世界として虚構の世界と埋もれていく様子は、仏教の「唯識」と呼ばれる領域を彷彿とさせたし、

鬼滅のすべてがこのセリフにあるといっても過言ではないと思う

「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」と語る煉獄さんには、仏教という思想の大前提である「四苦(生老病死)」、そしてすべてが移り変わりゆく存在として説かれた「諸行無常」を感じさせてくれた。

この無限列車編には、2500年の仏教のエッセンスがこれでもかと濃縮されている。なので、全部あげていくときりがないのだ。もはやすべてが仏教だとも言える。

というわけで、今回は無限列車編のなかで、僕が一番心に残っているあのシーンを取り上げたいと思う。というか、もはや『鬼滅の刃』のなかで一番、なんだけども。

それは……

光る小人である

光る小人のシーンが一番好き!!!

炭治郎の無意識領域にいる優しさの化身

僕は無限列車編の、この炭治郎の優しさの化身、光る小人のシーンが大好きだ。

最初見たときは、「突然どうした!?」と驚いたのだけど、読めば読むほどその世界の深さを感じさせてくれる、鬼滅で随一ともいえる詩的なシーンだと思う。

何度も読み返していると、このシーンはこの『鬼滅の刃』という物語を語るうえでも、かなり大事なシーンなんじゃないかと思えてくる。

まず、注目したいのは、この光る小人のシーン、あまり無限列車編の本筋と関係がないように見える点だ。描かれているのは、炭治郎の無意識領域に入った青年のその後の話である。たとえ、別にこの箇所がごっそり抜けていたとしてもシナリオ上は問題ないとも思える。

なのに、けっこうコマが割かれている気がする。ページでいうと3ページ。しかも、光る小人がこのあとの物語で出てくるかというと、そうでもない。光る小人はこれっきりなのだ。

こうした状況を見ていくと、「どうしても描きたかったんだろうな」と思わずにいられない。作者の信念がこの光る小人に込められていると僕は思う。

ここからはその仮説のうえ、光る小人とはなんなのかを考えていこうと思う。

思い返してみると、僕はこのコラム連載の一貫した主張として、鬼滅は「繋がり」がテーマなのではないかということを書いてきた。この小人はまさに、その「繋がり」に関わる描写に思えるのだ。

死んでいった者たちとの繋がり
亡くなった友との繋がり
自分が存在しない時代との繋がり
日の呼吸も繋がるようにできている

死んでいった者たち、友人、先祖、そして鬼。あらゆるものが別個にバラバラに存在しているのではなく、実はすべてつながっている。そんな世界観が物語の裏側で描かれているのではないか、とこれまで考察してきた。

そして、その繋がりを感じる力の極致が主人公の炭治郎なのではないか、と。

まさに、この光る小人は、その人と人の見えない繋がりを表現するものだと僕は思う。だからこそ、鬼滅の物語のなかでも、ある意味タネ明かしとも捉えられるような決定的な描写なのではないだろうか。

例えば、実際に、劇中で炭治郎と接したことのある人間は、炭治郎がいない場所でも心のなかで炭治郎を思い出すことが多い。

死に際で炭治郎を思い出す善逸
炭治郎の言葉を思い出す伊之助
最初は頑なだった玄弥も窮地で炭治郎を思い出している

たとえ、目の前に誰かがいなくても、その人を感じ、その人を想えること。それは鬼滅が物語のなかでも大事にしてきた概念だと僕は思っている。

鬼滅では「たとえそばにいなくても」というニュアンスが強調される

僧侶からすると、それは限りなく純粋な「祈り」だ。光る小人はまさに、人が人を想う、その媒介になっているのだと思う。

仏教では、人はバラバラでそれぞれ生きているように見えて、「縁起」といって、実はすべての存在は繋がっているのだと説明する。「私」という固有の一つの主体があるように見えて、実はあなたがいて「私」ははじめて存在したり、周囲の人間だけではなく、この世界のあらゆるものによって「私」は構成されているのだと説かれる。つまりは、あらゆる存在が見えない糸で繋がっているのだ。

この光る小人は、まさにこの仏教の根本的な真理である「縁起」を表現しているものなのではないかと僕には思えた。炭治郎の心に触れた青年の心には、炭治郎の優しさの化身が住みついて、心をずっと照らしてくれる。決して目には見えないが、人と人はそうやって繋がって生きているのだと。

さらに、不思議なことに、『鬼滅の刃』を読んでいると、知らない間に、僕の心のなかにも炭治郎の光る小人が住みついているんじゃないかと思う瞬間がある。

例えば、僕はしんどいことがあると、「頑張れ!俺!頑張れ!」と自分に声をかけていることがある。そりゃもう、めちゃくちゃに炭治郎を思い出している。己を鼓舞しないとやってられないことの一つくらい、誰だって(僧侶だって)あるよね。

登場人物だけではなく読者が、炭治郎をいつの間にか愛してしまうのは、炭治郎の姿を追っていくうちに、彼のなかにいる光る小人が僕らの心のなかに宿っていくからなんだろう。あの青年みたいに、たとえ炭治郎と離れたとしても、心のなかにずっと炭治郎がいるのだ。

そんな鬼滅の根幹に触れる存在のように見えるので、僕はこの光る小人をどうしても忘れられず、とっておきのシーンとして心に焼き付けている。僧侶としても、それが人と人の見えない繋がり、つまり「縁起」を表現していると考えたとき、吾峠先生には果てしない畏敬の念すら感じている。

ちなみに、友達の僧侶は光る小人のシーンを見て「手塚治虫のブッダを越えた」と思ったそうな。

さて、そんな僕はというと、最近販売された、光る小人のグッズ(夜光ステッカー)をまんまと予約してしまった。

すでに僕の心のなかにいる光る小人は、いつかこの文字を打っているパソコンのディスプレイ裏にも佇むことになりそうだ。僕らは自分のなかに住む、光る小人を分け合いあって生きているんだろうな。

僕の初めての著書『世界が仏教であふれだす』が集英社から発売されました。自称「世界で一番敷居の低い仏教本」となってるので、仏教に興味を持った人がいたらチェックしてみてください!

※煉獄の「煉」は「火」+「東」が正しい表記となります。

鬼滅の刃
考察

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