「現役僧侶稲田ズイキの漫画考察」と題し、これまで7回にもわたって『鬼滅の刃』という作品を深読みし、「鬼滅って僧侶の目から見るととんでもない作品なのよ!」と叫んできた。いや〜、ここまでよく書いた!
いざ考察してみると、『鬼滅の刃』にはアホほど広い大地が広がっていた。僧侶の目から見ると、鬼滅は仏教の金太郎飴みたいなもので、どこをどう切っても仏教が現れてしまう。
1ページ開く度に、こんにちは仏教、こんにちは仏教。ここはブッダの町内会かってくらい、挨拶に忙しい。
正直な話、まだ原稿用紙100枚分は語れてしまうほど、ネタは尽きない。けれども、「じゃあ1巻から1コマずつ順にいきましょか」とは流石にいけないので、鬼滅語りはここらへんにして、一旦の終止符を打とうと思った。
第8回目であり、一旦の最終回となる今回は、これまでの考察をまとめてみたい。記事を跨いでややこしくなっていたところもあるので、ここで一挙にそれぞれの考察を振り返ってみようと思う。
『鬼滅の刃』とは何か?
こんな難しい質問を問われたら困るのだけど、あくまで僕の視点からは「現代の仏教説話」なんじゃないかと答えたい。日本では昔から伝承されてきた物語の中に「仏教説話」といって、仏教を題材にした数多くの傑作が存在する。(『今昔物語集』『宇治拾遺物語』など)
『鬼滅の刃』とは、日本という土地で遥か昔から慣れ親しまれてきた物語が、今現代によみがえった姿なのではないだろうか。僕はそう考えた。『鬼滅の刃』が老若男女に愛される作品となったのは、そういった物語の"系譜"が根源にある気がするのだ。
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振り返ってみると、鬼滅には仏教のモチーフが多数存在している。
・玄弥が戦いの最中に『阿弥陀経』というお経を読んでいる
・悲鳴嶼さんが「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えている
・炭治郎がたびたび「成仏してください」と言っている
・青い彼岸花(「彼岸」とは悟りの境地のこと)の存在
・全集中の呼吸が坐禅や瞑想っぽい
・"透き通る世界"が「無我の境地」と猗窩座から評されている(「無我」とは仏教でいう悟りの境地)
・鬼殺隊に全集中の呼吸を伝えた、"始まりの呼吸の剣士"の名前が「縁壱」(仏教では根本の思想に「縁起」がある)
でも、それだけではない。僧侶の自分からすると、物語の大きな構造においても仏教を感じざるを得なかった。
僕が感じたのは、鬼と鬼殺隊の関係性である。鬼滅でいう「鬼」という生き物は、仏教でいう「煩悩」の象徴であり、鬼と戦う「鬼殺隊」は、煩悩と戦いながら悟りを目指す「修行僧」のようなものではないだろうか。
「鬼=煩悩」という見方
①鬼は不老不死であり、永遠を求める存在の象徴である
②鬼は利己の象徴である
③鬼は個を中心にした支配体制を敷く
「鬼殺隊=修行僧」という見方
①人間は無常の象徴である
②鬼殺隊は利他の象徴であり
③鬼殺隊は繋がりで結ばれる
つまり、『鬼滅の刃』とは、修行僧が煩悩と戦うがごとく、鬼殺隊が鬼を倒す物語なのだと、僕は感じた。
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『鬼滅の刃』の2つの物語
しかし、思うに、『鬼滅の刃』は「鬼殺隊が鬼を倒す」というシンプルな物語の構造だけでは語り切ることができない。実は巧妙にもう一つの物語が重ねられているのではないだろうか。それは言うならば、「鬼の根源を辿る」物語である。
その仮説のきっかけになったのは、主人公の炭治郎だけは鬼に対して何らかの「繋がり」を感じていた点である。
例えば、このような場面で。
・禰󠄀豆子が鬼になっても、区別をすることもなく変わらず接していた
・「君の血鬼術は凄かった」と鬼に対しても素直に肯定する
・自分も鬼に堕ちていたかもしれないと自分を省みる
また、『鬼滅の刃』では、鬼ではないはずの人間の中に多数の「鬼のような現象」を見つけることができる。
・炭治郎の鼻や善逸の耳など、人でありながら超人的な能力が存在すること
・全集中の呼吸も一時的に鬼に近づく技術と見れなくもないこと
これらは「小さな血鬼術」が開花しているといえば、説明が付くのではないだろうか。つまり、『鬼滅の刃』の世界では、あたかも「鬼」という確固たる生物がいるように語られるが、その実情は「鬼の因子」のようなものがあり、誰もがその因子を持っていて、その因子の濃度配分によって「鬼」と「人間」という体裁上の区分が与えられているだけなのではないだろうか。
それは僕らでいうと、男女という一応の区分があるものの、誰もが両方の性質を持っていて、そのグラデーションのなかで生きていることとよく似ている。つまり、どのような人間も誰もが小さな鬼を持っていて、鬼もまた人間との間で揺れているのだ。
例えば、僕の仮説では、善逸は禰󠄀豆子と同じように「眠り」によって、自分の中の「鬼(煩悩)」を制御しながら戦っていたように思える。さらに、悲鳴嶼さんは彼が唱える念仏の意味を体現するがごとく、煩悩と悟りの間で揺れていて、その精神性がツーブロックの髪の毛(半分剃髪・半分長髪)に現れているように思えた。
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作品の中で点在する「鬼」という存在。そんな鬼の"根源"に気付いているのは、この物語でただ一人、鬼に「繋がり」を感じている炭治郎だけだったのではないだろうか。ただ「鬼だから」ではなく、鬼ではない者のなかに"鬼"を発見していく炭治郎の姿勢。それを象徴的に表しているのが、「滅」の文字だったんじゃないかと僕は考える。
・タイトルが、鬼「殺」の刃ではなく、鬼「滅」の刃であること
・炭治郎の手に伝わった刀が作られたとき、たった一つの目的を込めて刻まれた一文字が「滅」であること
これらのことから、この物語において、鬼殺隊の中で炭治郎だけが別の使命を持った人物として描かれているのではないかと僕は考えた。
ここで、作品の中でモチーフとして使われている仏教を紐解く。仏教的に解釈するに、「滅」という言葉は「無くす」という日本語的な意味ではなく、「コントロールする」という意味がある(滅の原語 nirodha)。
すなわち、「煩悩を滅する」とよく僧侶は言うが、その意味は消すのではなく、コントロールして上手く付き合っていく方向性を示している。つまり、炭治郎だけが鬼に対して「殺」ではなく「滅」、その鬼と共生していく道を歩もうとしていたのだと僕は思う。
だから、タイトルで「滅」と「殺」を使い分けているのは、鬼と人間の二項対立を超えていく、そんな炭治郎の意思を、この物語を通して表現したかったのではないだろうか。
だから、僕は、『鬼滅の刃』は鬼と人間を対立関係に描いて鬼殺隊が鬼を倒していく物語のように見せかけて、実はその鬼と共生していく物語をその裏側で表現しているのだと感じたのだ。
鬼とはなんなのだろうか。目の前の鬼は憎き敵のように映る。でも、鬼は自分たちの心の中にも存在するのではないだろうか。欲望、自分勝手な怒り、他者の拒絶……。そんな煩悩が因子となり、鬼は現れる。そんな鬼の根源を見つめ、自他含めた鬼を成仏させていくのが、『鬼滅の刃』のもう一つの物語だったのではないか、というのが考察である。
つまり、『鬼滅の刃』には二つの物語が同居していて、表の物語が「鬼殺隊が鬼を倒す話」であり、裏の物語が「鬼殺隊が己の中に鬼を見つける話」なのだとまとめることができるだろう。
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余談になるかもしれないが、この前提のもと、無惨様との最終決戦を見ると、その景色は大きく変わってくるのかもしれない。
・走馬灯を経て「成仏」していった多くの鬼と比べて、無惨様の死はあまりにも未練が残っていて、煩悩が滅されていないように思える
・最終話の第205話で、炭治郎の子孫である炭彦が超人的な身体能力の持ち主として執拗に描かれていること(鬼の特徴)
・同じく第205話で、炭彦が「寝るのが好き」と言っていること(鬼と人間の狭間で揺れていた禰󠄀豆子や玄弥と同じ現象)
すなわち、最終話時点で、無惨様が炭彦のなかで生き残っている可能性があるのではないかと僕は考えている。「鬼がいない世界(第204話)」と言いながらも、実は「殺」しただけで「滅」されていない鬼がいるのだ。それは、この『鬼滅の刃』のなかでひしめき合ってきた2つの物語が、最終的に表を向けた状態で幕を閉じたのだと解釈することもできるだろう。
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これが最後のまとめになるが、こうした人か鬼か、1か0かという固定観念をときほぐし、二項対立を越えた世界を見ることを、仏教ではまさしく「悟り」と言うのだ。
表層から見える物語だけではなく、その根底に流れていると思われる物語もまた、僧侶から見れば仏教として目に映るわけである。
中でも、僕が一番心に残っているシーンは、無限列車編の「光る小人」の描写だ。鬼滅で随一ともいえるこの詩的なシーンを読むと、仏教の根本である「縁起」、つまり「目には見えないがすべては繋がっている」ことの本質に触れた気がするのだ。
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こんなふうに読んだものだから、僕は初めて『鬼滅の刃』に触れたとき、涙が止まらなかった。2500年前から説かれてきた仏教の物語が今、すごい解像度で現代によみがえったような気持ちになった。
もはや吾峠呼世晴先生は悟りの境地にいるんじゃないか、とすら思えてきて、もうこんな物語があれば、僧侶である自分なんていらないんじゃないかと思えるくらい。
でも同時に、自分が僧侶として大切にしてきた想いを、「それでいいんだ」と真正面から肯定してくれた気もした。だからこそ、僧侶である自分がどのように『鬼滅の刃』を読んだのか、一つ一つを言語化したかったのだ。
ありがたいことに、この連載では記事を出すたびに鬼滅ファンのみなさんから、肯定的なコメントをたくさん寄せていただいていた。毎回読んでくださっていた皆さん、本当にありがとう。
このVジャンプレイでは、次の連載企画も検討中です。興味を持った人は、同じ集英社から出ている僕が出した本もよかったら読んでみてください。また会える日を楽しみにしています。ではでは。
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