オフィシャルプレイヤーだけど、お坊さんは肩身が狭い
こんにちは、僧侶の稲田ズイキです。Vジャンプレイ公式プレイヤーをしています。
とは言ったものの、ゆゆしき問題がありまして。サイトを見てもらったら分かると思うのですが、芸能人やクリエイターの方など、錚々たる公式プレイヤー勢のなかに、どう考えても浮いてるんです。一人、僧侶が。
たとえるなら、この状況、『キン肉マン』でいうジェロニモ、『ONE PIECE』でいうウソップ、『BLEACH』でいう茶渡泰虎。つまり、圧倒的に弱者なんすよね。
もうそうなってくると、ジャンプ的には僕にできるのって、できるだけ声を張るしかないじゃないですか。思い出してみてください。力のないキャラって大概、血を流して歯を食いしばって必死に声量を上げてるじゃないですか。ウソップも4トンバットで頭蓋骨打たれながら叫んでたし(一番好きなシーンである)。
とにかく僕は思い出しました、中学の女バレのあの猛々しい大声を。ウラララララララと雄叫びをあげるジェロニモのごとく、遠くの居酒屋の店員にもレモンサワー注文できるくらいヌケ感のある発声をするしかない。それがこのVジャンプレイにおける自分の役割なのだ。
というわけで今回は、週刊少年ジャンプで連載している大人気作品『僕のヒーローアカデミア』について、デカ声で話します。
ジャンプ作品、第1話がめちゃくちゃおもしろい
言わずもがな、ジャンプの作品ってどれもめちゃくちゃおもしろいじゃないですか。フェスで言うなら全員ヘッドライナー、全員Oasisみたいな。そんな化け物みたいなラインナップのなかでも、作品の”熱”みたいなものを一番感じるのが「第1話」なんすよ。
僕は漫画の編集とかについては何も口を挟めない全くの素人なんですが、ジャンプの1話目だけは、込もっている熱量が違うことをひしひしと感じるんです。
「一人でも多くの人にこの面白さを届けるために、一コマも無駄にしねぇぞ」
そんな熱量がね、卑近な例でいうと、イオンで「干し芋詰め放題」の立て札を見たときの自分と同じ気概が伝わってくる。全身全霊、一球入魂の干し芋、それがジャンプの第1話なのです。
限られたページ数のなかで、細かくコマを割って必要最低限の世界観を醸成し、なおかつ「かっけぇぇぇえ」と少年の遺伝子を刺激するキメを刻んでいく。これまさに、最初からクライマックス、最初から『Don'tLockBackInAnger』です。
今更だけどヒロアカの第1話が大傑作すぎませんか?
↑第一話はこちらから読めます
そのなかでも、『僕のヒーローアカデミア』の第1話が完璧すぎるんすよね。言わずもがな、週刊少年ジャンプの大人気連載ですが、これでもかってくらいに干し芋が詰まってるんですよ。これ以上接近したら、干し芋と干し芋が引力で引かれ合って、互いの重力でロッシュ限界を迎えて、潮汐分裂しちゃう……ってくらい宇宙の寸止め。超新星爆発、漫画味なんです。
まず最高なのが、ヒロアカの能力バトルにおける概念、つまりは『ONE PIECE』でいう悪魔の実とか覇気なのですが、このネーミングにヒロアカの世界観が集約されているわけですよ!
この漫画では「超常」が「日常」になったがゆえ、その「超常」も僕らにとって当たり前の言葉に置き換わったわけです。それが「個性」。
僕らでいう個性って、背が高いとか、誰よりも速く芋が掘れるとかじゃないですか。その感覚と同等のレベルで、ヒロアカの世界では「能力」が扱われているわけです。ヒロアカを初めて読んだときは、「えっ、それ『個性』って言い切っちゃうの? かなりアバンギャルドな設定よ?」と戦慄したものです。単語一発で世界をドンと語るそのセンスよ。
で、これのおかげで何ができるかって。
無個性の主人公デクに対して、無限の感情移入ができるんすよねぇ。例えば、『NARUTO』でも主人公はデクと同じ落ちこぼれから始まりますが、どうあがいても僕らは忍としての自覚は持てないじゃないですか? どうあがいてもチャクラ出ねぇし。もちろん共感はできるんですけど、どうしても遠い世界の話として見えてしまうと思うんです。
ところが、「個性」っていうネーミングのおかげで、「あ、無個性のデクって、俺じゃん」ってなるわけですよね。爆豪くんに「無個性のてめぇが何をやれるんだ!?」って言われるたびに、グサグサと言葉のグングニルが心臓に突き刺さるわけです。
主人公、無個性はズりぃわ(無限感動)
第1話では、無個性だと診断されて世界から拒絶された絶望が、一転して希望に変わるまでの瞬間が描かれるんですが、個性の有無を越えたヒーローの特性を、しかも誰よりも憧れている存在から、認められるわけなんですよね。
「あの場の誰でもない小心者で”無個性”の君だったから!!! 私は動かされた!!」
もうこのオールマイトのセリフ、他人と比べすぎて「自分には何一ついいところがない……」とメランコリーをキメていた思春期の自分に見せたら、涙腺(爆)ですよ。人類に一斉にヒロアカ1巻を読書させたら、ドッと涙で地球が雨季に入って、全人口の前髪曲度がクッネクッネに上がりまくるわけです。
このセリフのなにがすごいって、デクが個性を見つけたっていう物語じゃなくて、個性がないからこそ、努力の方法を見つけ、さらには一歩を踏み出す勇気が他人の心を動かしたっていう話なんです。持たざるものこそが実はすべてを持っている、それはつまり遊戯王でいう「見えるんだけど見えないもの」的なやつです。
僧侶ですから、たまに僧侶っぽいことも挟みますと、人は見えやすいものにばかり目がいってしまいますが、この世のすべての事象は他のあらゆる事象とつながっているのです。それを仏教では「縁起」とかって言いますけど、たとえ個性がないと思っていても、個性がないという事象があるからこそ、その人には必ず別の事象も備わるはずなんです。
だから、ある意味、顕在的な「個性」を越えたものこそが本当の意味での「個性」なんじゃないかとも思えます。デクには先天的にわかりやすい個性はなかったですけど、それがゆえに他の人とは比べられない唯一無二の「個性」を手に入れている、ヒロアカはそういう縁起の物語にも見えてくるわけです。
1話以降を見ていくと、雄英高校のクラスメイトって全員が生き生きとしていて、たとえばコマの隅をのぞくとキャラ同士がいちゃいちゃしていたり、まるで自分もクラスの一員になったような気持ちになるんです。
それはこの作品が、個性という能力を題材にしながらも、能力を越えた本当の個性、あえて言語化するならば、人間性とかその人足らしめているものを描こうとしているんじゃないかと思ったりもするわけです。僧侶からすると、それマジ縁起って感じで、思わず単行本を焼香で清めたくなるポイントです(それ、経本に対するムーブ)。
少年漫画における母親の存在
さらに言えば、この続きの展開、「違うんだお母さん あのとき僕が言ってほしかったのは」のデクの内心の吐露にオーバーラップさせた、オールマイトのセリフ「君はヒーローになれる」、これね。
もう、今読み返しただけでも、涙腺が爆ぜそうになるのですが、ここでの「お母さん」の立ち位置がマジすごいなと思うわけですよ。
『ONE PIECE』の尾田栄一郎先生が78巻の読者コーナーで「冒険」の対義語は「母」だとおっしゃっていましたが、これから成長していく少年に対し、母親の存在をどう描くかは少年を題材にした作品の永遠のテーマなんじゃないかと僕は思っています。関係ないですけど、糸井重里さん『MOTHER』シリーズとかは、そのゲームタイトルにもあるように、母親と冒険の距離感が絶妙でした(母親にしばらく電話しないと主人公がホームシックになったりね)。
それでいうと、ヒロアカでは、決して毒親とかっていうわけでもなく、一心に愛を注いでいる母親であったがために起きてしまった子とのすれ違いが、デクの「冒険」の一番の障害になっているわけですよ。
子を思う気持ちが募って発された母親の「ごめんね」ほど重いものはなく、希望を見たいデクにとってはその優しさが呪いになるわけです。母親を敵にせず、さらにはデクの冒険心を最大化させる至極の一手がここに決まってるんすよ。僕も冒険(出家)した日のこと思い出しました。
ヒーローとは僧侶のこと(ではない)
さらにいえば、僧侶的にここが熱いと思ったのは、最後の「これは僕が最高のヒーローになるまでの物語だ」という部分です。初めて聞いたときは、
「最高のヒーローとは??」
と唖然としました。つまりは、この漫画においてデクには明確な目的がなければ、具体的な目標もない。ONE PIECEだったらワンピースを見つける、NARUTOだったら火影になる、HUNTER×HUNTERだったら父親を見つけ出すとか、具体的なビジョンがあるじゃないですか。それがヒロアカの場合、「最高のヒーローとは??(口あんぐり)」と言った感じで、急に霧がたちこめます。目標がかなり内在的で抽象的なんですよ。自分のなかのヒーロー像を実現するっていうのが、この物語の背骨になってるわけです。
それ、誠に勝手ながら「僧侶と一緒やん」と思うんすよ。僧侶もね、悟りを開いてブッダになるために修行しているわけですけど、「ブッダとはなんぞや!? 悟りとはなんぞや!?」と自問自答しながら、抽象的な概念と向き合って、自分のなかの僧侶像をこの浮世で表現する生き方なんですよね、鬼盛りして言うと。
だから、デクが「ヒーローならば……」と自問しながら、なおかつ常に答えを持っている姿というのは、僕からすると「俺じゃん」となるわけです。僭越極まりないが、オールマイトのセリフ「君を諭しておいて己が実践していないなんて!!!」は完全に僧侶のセリフですから。
ちなみにですけど、ヒロアカにおけるヒーロー像について、僧侶と紐つけて書かれている論文を見つけました。
※引用:衛藤安奈「ロマン主義としての「少年マンガ」にみるニヒリズムと倫理の現在 : 『進撃の巨人』と『僕のヒーローアカデミア』」(2018、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会)
"筆者の見るところ,『ヒロアカ』が「ジャンプ的価値観」にもたらした 「新しさ」のうちもっとも重要なものは,「王道」の枠内で「ヒーロー」を普遍性の高い宗教的倫理に突き動かされる救済者の象徴として明確に位置づけたことである。(途中略)出久にとっての人命救助とは,そうした行為への参与それ自体が,疎外され萎縮していた自己の精神に偉大な生命力を覚醒させ,「他者」を救済することを通じて自身にとっての救済がもたらされるという求道的営みである。また過去の『ジャンプ』作品の主人公には,特別なものを求める冒険の途上や特定の対象と戦う運命といった,予め設定された大きな目的に付随する形で救助・救済をおこなう傾向が強かったのに対し,『ヒロアカ』の「ヒーロー」は,匿名の誰かを自己の能力が及ぶ限り救い続けること,ただそれだけを目的とする存在である。それゆえ『ヒロアカ』においては,具体的・経験的状況からは飛躍した起源不明の主体的倫理が強い存在感を放っている。(途中略)このように描かれる「ヒーロ ー」はある種の高貴な精神の隠喩として機能している。(途中略)「ヒーロー」像の源流には,神道的要素を部分的に含んだいわゆる大乗仏教の世俗化された感覚があると推測される。(途中略)理念としての「ヒーロー」の核には,厳しい修行を積んで悟りを開き,自己を犠牲にして苦 しむ衆生をあまねく救おうとする仏教的聖者の感性があると考えられる。 "
だそうです。僕がヒロアカのヒーローたちにバイブスを感じるのは、何かしら構造的に近いものがあるのかもしれません。と、同時になぜこの作品のタイトルが単なる「ヒーローアカデミア」ではなく、ヒーローに「僕の」を付けるのか、その理由が分かった気がします。
終わりに
というわけで、1話にここまでの情報量、ドラマを詰め込んだヒロアカというのは、マジモンの快作ってなわけです。そんなこと今更言わんでもわかってるわい、と言われそうですが、とにかくここまで脳内ツッコミを無視して語りたいことを語ってきました。
たまに「わ〜どうせ俺なんて〜」って、布団に顔をうずめたくなる日もあるのですが、そんなときこのヒロアカの1話を読むと、やるしかねぇと覚悟が決まるんです。もちろんデクみたいにはパーフェクトに努力もできないのですが、無個性で無能だからこそいつか花開くものがあると圧倒的温度で教えてくれる。どれだけどん底にいても、地獄の底から「Plus Ultra」って叫び声が聴こえてきたら、こっちのもんです。
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